園中八撰花 松

 歌川国芳は躍動感溢れる武者絵や奇怪な妖怪の絵が得意な浮世絵師で、現在あらゆるメディアやアミューズメント業界でも作品を目にする機会が多くなりました。

しかし、それらばかりでなく猫や美人画も手掛けた手広い作風でも有名です。
夏が近くなれば江戸の浮世絵師たちはこぞって団扇絵を刷りあげ、庶民達のニーズに応えようと必死でした。

団扇絵は当時の人気役者や芝居の宣伝にも使われ、また夏場の贈答品にもなったのです。

団扇絵の「園中八撰花」シリーズは、唐の詩人・杜甫が8人の酒豪詩人歌った『飲中八仙歌』を当世風美人に置き換えて描かれています。
故事や逸話のモチーフを当時の美人や人気役者などに置き換えて描くことを「見立て」といい、機知に富んだ表現は当時の知識人にも評価され、愛されました。
「松」の他にも「撫子」「菊」「桜」などが刷られていますが、団扇は消耗品でもあったため、現存しているのは刷った後に団扇の骨に貼られなかったものだけです。

「松」では、美人が海老の天ぷらを串で刺して食べようとしているところですが、振り返って誰かと会話しています。
右手と交差させて持ちあげた左手は、天ぷらを食べている口元を隠したいのか、それとも、天ぷらの油を拭ったところなのか。
どちらにしろ、夏に旬を迎える海老を、ごま油でカラッと揚げた天ぷらは、女性も含め大人気のファーストフードであったことには変わりありません。
涼しげな紺の着物に、夜風に揺れるおくれ毛、そして女性の背後の黒い松の影は夏の風情を伝えます。彼は主観的な作風としても知られています。
描かれた女性が活き活きとした仕草で夏を満喫しているように、国芳も屋台などで揚げたての海老の天ぷらを堪能したことでしょう。
この団扇絵にもおいしい天ぷらをたくさんのせた皿が描かれています。

日本人が西洋人より美術館に足を運ばない理由として、「アートがわからないから」「絵の見方がわからないから」といった回答が存在します。しかし、最近できた友人から「絵の個展をやるから見に来てほしい」誘われたら、いい返事をしそうなのも日本人ですよね…。
なら、美術の巨匠に対して「人見知り」をしていると仮定し、その「人見知り」を取り除いたとき日本人と美術界の関係はどう改善されるか、実に興味深いことではありませんか。

周知の通り、「食」はその人物を構成する重要な要素であり、「食」なしで高度な精神活動はままなりません。
そして、巨匠である画家たちも私たちと同じように好きな食べ物の一つや二つはあったのです。
私たちと同じように思い出の味もあり、そういった回想をした時の気分の抑揚や味覚さえ作品に滲み出ている、そう考えると同じ絵画でもまた違った印象を受ける可能性が出てくるわけです。


作者名:歌川国芳
制作年:1847年頃
技法材料:紙、多色刷木版画
サイズ:21×28.5cm (団扇絵外寸)
所蔵先:不明

歌川国芳の錦絵

浮世絵は1670年頃から江戸時代の一般庶民、特に町人たちの生活に密着したメディアの一部となる。版画の浮世絵は一点ものの肉筆画と違い、一度に200枚程度刷れることから、蕎麦一杯分の安価な値段で売買され、その人気は瞬く間に全国へ広がった。
また当時は鎖国中であったが、オランダを介して日本の物品が取引されていた。商品の陶器などを包んだ浮世絵の古紙がヨーロッパの芸術家の目にとまり話題となり、海外ではいち早く浮世絵自体が芸術品として求められるようになった。そしてそれらは、「ジャポニズム」の火付け役として活躍することとなる。ここでは、江戸時代に名を残した浮世絵師の中から歌川国芳(1797~1861)を選び、作品中のデザイン・構図構成に焦点をあててその特質を説明する。


私は今年6月Bunkamura ザ・ミュージアムにてボストン美術館所蔵の歌川国芳の浮世絵を鑑賞した。その中でも「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」(1845年)と「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(1851年)は特に印象的であった。
shouhudatukiまず「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」の纏う衣装が髑髏柄なのだが、これほど粋でユーモア溢れる髑髏のパターンには出会ったことがない。会場で作品を閲覧していた人の中には思わず「この髑髏は猫でできている」と声をあげてしまう者もいた。さらに、この作品に描かれた男が剣にぶら下げている下駄の木目も髑髏模様、袈裟のような着衣も色違いの髑髏柄ときている。この髑髏柄を自ら「国芳もやう」というあたりからも、彼のファッションへの強いこだわりが感じられる大変興味深い錦絵である。
実は似たような構図、衣装の浮世絵で春好斎北州の「初代市川海老十郎の唐犬重兵衛」がある。人物の大まかな向き、服装の配色、そして髑髏柄という点はかなり類似しているが、よく比べると「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」は毛髪の描画が緻密で、付加価値をつけた髑髏模様の描画にもキレがあり、小気味良い。
江戸の染物屋で生まれ育った国芳は、当時の流行に敏感で、着物の柄やカラーコーディネートには人一倍こだわりをもっていた。それを示すのが1853年に出版した『染物早指南書』という版本である。本の内容は染色品目四十六種の色見本に解説を施したものであり、現在に至っては国芳のデザイナーとしての才能を窺い知ることができる貴重な資料である。
しかし、現在の浮世絵界で名の知れた国芳も歌川豊国に入門しデビューした当時はなかなか売れず、兄弟子に面倒をみてもらっていたという。転機が訪れたのは30代で、1826年に刊行が始まった曲亭馬琴(1767~1848)『傾城水滸伝』のブームに乗り、翌年「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人」を錦絵で公開すると、たちまち作品が脚光を浴び「武者絵の国芳」と呼ばれるようになった。

a1150_000860
国芳が得意とする三枚続の錦絵は、各1枚づつでも楽しめる図柄の構成にはなっているが、それぞれ商品として人気が出なければ、版元は大損をしてしまう。それを独創的な構図とアイディアで版元を黙らせ納得させてしまうのは流石である。また版元は、三枚続の制作に踏み切るほど国芳の才能を買っていたともいえよう。
国芳は元来想像力豊かな絵師で、それまでだれも描いたことのないような未知なるものを独創的に描いてのけた。いわば絵画界のファンタジー世界の先駆者である。「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」はその抜群の構成力と才気溢れる表現力によって躍動感ある物語のシーンを見事に拾い上げている。絶え間なく押し寄せ舟をのみ込まんとする荒波、三枚に渡って描かれる大鰐鮫は迫力満点で、見る者を無理やりにでも物語の世界に引き込んでしまう。大胆な構図を用い、紙面三枚分を駆使して刷ったこの作品は、それまでの型にはまった武者絵の常識を覆すものであった。

kuniyoshi
更にこの作品で面白いのは、主人公を救う烏天狗をあえて白がちなモノトーンで彩色している点である。自然界ではありえない彩色を施すことによって、「異界のもの」として登場させ、それらの存在感を際立たせている。この浮世絵は、「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人」と同じく馬琴の『椿説弓張月』をテーマにして刷られたものだが、独創的な世界観・発想力をもって浮世絵を描き続けた国芳は、江戸時代の庶民を新たなファンタジー世界へ誘うエンターテイナーであったともいえよう。
このように、国芳が三枚続の錦絵で表現した構図・構成の工夫は、それまでの非現実的な世界の表現に「迫力」という切り札を与え、国内で後発する絵本や雑誌・現代のアニメ文化にも多大なる影響を及ぼした。また、国芳の鋭いデザインセンスで描かれた浮世絵は江戸の流行ファッションや「粋」という当時のブームを今に伝えてくれる重要なメッセンジャーとなっている。二十一世紀の今日においても斬新でユニークな「国芳もやう」のファンは多い。今回歌川国芳の浮世絵作品を通して、現在のデザインや絵画表現の試みに新たな視点を得られたことは何よりの収穫であった。